東日本大震災から1年が経ち、また桜の季節を迎えようとしています。心弾むはずの春の足音ですが、いまは桜の便りをきけば、どうしても1年前のことに記憶が呼び戻されます。 被災されたみなさんが、一日も早く平穏な日常を取り戻され、不安なく暮らせる日が一刻も早く来ますことを、あらためまして心よりお祈り申し上げます。
当会も自分たちの活動を通して、たとえわずかでも被災地や被災された方々のお役に立てることをとの思いから、ささやかなことしか出来ませんでしたが、イベントの収益金を被災地支援にあてたり、来場された方から応援メッセージを募り、ネットで発信し続けるなどをしてまいりました。
復興への道のりはまだまだ始まったばかりともいえる状況ですが、私たち一人一人が被災地や被災された方々のことを何時も心にとめ、ほんの小さなことでも、それぞれに出来ることを自分たちなりに続けていくことが、遠回りなようでも、復興への大きな力と支えになっていくのではないかと思えます。
そんなおり、キリマンジャロ山での植林ワークキャンプにも参加されたGさんから、被災地での復興支援に携わられてのご報告(レポート)をいただきました。もう何回も被災地に足を運ばれ、数十日間にわたって復興のお手伝いに関わっておられるGさんのレポートからは、「読んでいただくのも東北支援の一つと思っていただければ」と、レポートに添えられた言葉に違わぬ尊い大切なメッセージが込められているように思えました。
そこで3回に分けて、そのレポートを掲載させていただこうと思います。また掲載をご快諾いただきましたGさんには、心よりお礼を申し上げます。
今回は第2回のレポートの掲載になります。第1回の報告はこちら
~東日本大震災復興支援ボランティア報告②~
東北被災地のボランティア
どんな人が!どんな想いで!どんな事を! (2011・9・20)
(前回のレポートは5月時点で接した被災地や被災者の実情を、体験した範囲でまとめた ものでしたが、今回は一緒に作業したボランティアに照準を合わせて記述してみました)
参加した”RQ市民災害救援センター”では毎日80~120人ほどが活動しています。 わたしは大勢の人が駆けつけるであろう5月の連休や7,8月の企業や学校の夏休み時期を外して、5月下旬,6月下旬,9月上旬、各回10日、延べ30日間、石巻、南三陸町、気仙沼での作業系活動に参加しました。
◎ボランテアの男女比率は?
5月頃は男性が70%近くでしたが 9月の時点では女性比率が60%を越えていました。 これは活動の主体が現場作業系から 避難所や仮設住宅などの被災者ケア-に移行し始めたこと、それに 活動環境が少しずつ整いだしたことにもよるでしょう。
◎どこから?
距離的にも宮城の本部まで車で8~10時間の関東地方からの人が半数以上でしたが、 九州や四国、中国、それに関西 とにかく西から東まで 全国各地から来ていました。 遠く外国から来た人、滞在中の外国の人、北米の日系二世三世なども目をひきました。
◎どんな想いで?
百人百様、千人千様
・被災地、被災者の為に!
・自分の為に!
・わからない・・・とにもかくにも被災地に!
・他にもいろいろあると思います。
2度目3度目のリピーターの姿も多く見かけました。
◎年齢的には?
わたしみたいな65歳以上は少数派でしたが 足手まといにはならなかったようです。 主力はやはり20代30代40代でしょうか! この世代が活動の運営も、個々の作業の仕切りも精力的にこなしていました。 この中にプロはいません、全てが入れ替わりのボランティアばかりです。 PCや携帯をフルに使っての情報収集、分析、伝達、整理は 彼、彼女らの得意技、その上粘り強くフェイス・トゥ-・フェイスで話し合う姿にもオジンは舌を巻きました。
◎ボランティア活動の実際は?
・瓦礫・泥・漂着物の片付け作業
・漁業再開の為の漁協の手伝い作業
・漂着した写真などのクリーニング作業(9月の時点でほぼ終了)
・避難所・仮設住宅・個人宅、すべてが活動対象で、住民リーダーや地区リーダーの 要望や指示に従い、あらゆる活動をします。まさによろずやです。
・被災地のこども対象の活動、例えばキャンプや遊びや習いごとなど諸々です。
・物資の配布
全国から届けられた物資をそれぞれの避難所や個人宅に、その要望を聴きながら配って廻るのがメインの作業でした9月以降は飲料水の配布をのぞいて脇役に退きます。
・ボランティアのボランティア
会社でいえば総務・庶務的な仕事です。ボランティアの受付、コーディネート、外部との折衝、その他内外部雑務全般です。比較的長く逗留できる人が担当します。
◎一日のながれは?
6:00~ 昼用のおにぎり作り
6:30 朝食
7:30 朝ミーティング
8:00 活動開始
12:00 昼食(各人おにぎり持参)
18:00 夕食
19:30~21:00 夜ミーティング、翌日の班編成
23:00 消灯
現場が遠いときは 5:30朝昼用のおにぎり作り、6:00出発です。
作業系は 達成感も大きいですがハードでもありました。
◎寝泊りは?
登米本部は廃校になった小学校の体育館のちには校舎を借りて、気仙沼は被災したレストランを借りて、南三陸町はテント村、小泉地区もテント村、石巻は公民館とお寺の本堂を借りてと様ざまですが 床に寝袋でザゴ寝は共通です。
◎食事は?
各キャンプとも当番制でごはんを炊き、湯を沸かします。 キャンプにより汁物があったり なかったり、一品があったり なかったり これまた様ざまです。 昼飯は 各人おにぎりを作って持参します。
◎シャワーや風呂は?
登米に8月、仮設シャワーが設置されました。他のキャンプは車仕立てて皆で銭湯に。
わたしが一緒だったボランティアの横顔を少々!
・京都舞鶴から軽トラでやってきたカツさん・・・元海上自衛官・パイロット いま百姓
・長野松本からやってきたダイスケくん ・・・・・料理人
・エネルギッシュで人の世話が得意なツッチィ ・・プロの山ガイド
・横浜から来て3ヶ月以上もいるホッシャン ・・・謎 謎の人物?
・初参加ながら女性軍を仕切ってくれたユウコ ・・秋には結婚すると云っていたが?
・フォークリフトの運転が上手なタクさん ・・・・運送会社かな?
・次は学生も連れてくると云ってた滋賀からのナカさん・大学教授
・愛知豊橋から軽トラに発電機積んできたマサさん・元自動車メカニシャン いま百姓
・室蘭からやってきた無口で力持ちのトウさん・・・元海上保安官 いま油屋
・器量がよくて男顔負けの力持ちのミキ ・・・・ 警察官の卵、元大学チアキャプテン
・気仙沼で2度目、夜行バスできたヤマちゃん・・・ライター
・草刈り機の名人の宮崎都城出身のノリコ ・・・ 気仙沼キャンプの総務でがんばった
・国境無き医師団が目標のヨシくん ・・・・・・ 医者の卵、医学生
・なんでも運転できる2度目のナルちゃん・・・・ 水族館の飼育専門員
・岐阜からきた 穏やかなカトーちゃん ・・・・ 気仙沼キャンプの総務でがんばった
・何度も来ている、避難所で一番人気のニシさん・ 理学療法士
・熊本からきた植村直己そっくりのフカちゃん・・ 東京出張のついで、どっちがついで?
きりがないので これくらいに!
わたしが一緒に作業した外国の人たち
イギリス、台湾、韓国、アメリカ、カナダ、中国北京・内モンゴル もっと他にもおられたと思います。
被災者に「このように外国からも」と紹介するととても喜んでくれました。
他の団体とも協力して作業しました
〇 岐阜県白川村からの弾丸ツアーでやってきた13人のみなさん
1日だけの作業でしたがダンプの運転やチェーンソーなど、なんでもこなす人達でした。
○ 大学生のグループ
・全国13のキリスト教系大学のボランティア組織
・全国300大学が参加する学生ボランティア協会
・日本財団募集の 学生ボランティア団体
各団体とも「50人、5泊6日」このくらいをひとつの単位に考えているようでした。
鹿児島から北海道まで モチベーションの高い学生が集まっていました。
●「ボランティアというのがどういうものか、3度来てやっと少しだけわかったような気がします」とは 同年輩の人が別れぎわに云われた言葉ですが、わたしも同感でした。
被災者の中には笑顔で接してくれる人もいますが、ほとんどの人がたくさんの、大事なものを失い、物心ともに極限まで追い詰められている状況には変わりはありません。こども達でさえ 日々、大きな絶望と小さな希望との間で揺れ動いています。
わたし達すべてのボランティアは、地区外からやってきた”よそもの”です。「災害援助の主役と勘違いしたような言動」や「火事場見物のような行い」 は被災者のこころを逆なでしかねません。
このようにこの年寄りは余計な心配までしていました、が 老いも若きも、男も女も さすが 「志の高い人たち」 の集まりでした。
震災から6ケ月、ボランティア活動は内容も質もすこしずつ変化していく時期にきています。
具体的にどのように変わっていくのでしょうか? わたしにもまだ何かできるのかな~?