現地調査のためタンザニアへ行っている、藤沢からタンザニア便りが届きました。随時、事務局日誌で紹介していきますので、お楽しみに!
藤沢は、現在、キリマンジャロ山麓の村に入りプロジェクトに関する仕事を行っています。
タンザニア便り その4 ~チナ~
タンザニアん町を歩いていると、よく子ども達に「チナ、チナ!」と指さされながら呼ばれる。現地を訪れてそのような経験をされた方も多いだろう。“チナ”とは正しくは“Mchina”(ムチナ)のことで、スワヒリ語で「中国人」を意味する。
不思議に思うのは、道行く車といえばほとんどが日本製であるし、車ほどではないにしろ、電化製品だって欲しいものとくれば、“Made in Japan”である(だからこそ先日の事務局日誌でも話題にしたように、まがいものとくれば日本のメーカーのものである)。ラジオに耳を傾ければ。援助関連を中心として「日本」の名が出ぬ日はない。なのに、なぜか呼ばれるのは“チナ”である。別にタンザニアのそこここに中国人がわんさと溢れているわけでは決してない。ではなぜだろう?
確かにタンザニアが社会主義国として独立後、その国家建設の過程において多くの中国の支援があったことは事実である。タンザニアとザンビアを結ぶ有名なタンザ鉄道の建設はその良い例であろう。しかし独立後40年を経たいま、かつてほどの中国人の姿は今はなく、一方で日本人を見かける頻度は観光客を含めて飛躍的に増えた。また経済的にも物質的にも、日本の援助や製品は人々にとって(実際にその恩恵に与っているか、或いは手にしているかは別としても)比較的日常身近なものになっている。
そこでこの疑問をTEACAのリーダーの一人であるンジャウ氏にぶつけてみた。彼の答えはこうだ。
(1)「まず独立時に助けてくれたことのインパクトが大きい。歴史の授業で教えられることもあって子ども達にとってインド系を除くアジア人の顔を見れば、今でも真っ先に“中国人”なのだ」。まあ、予想できた答えであり、納得の答えでもある。要は一番困っているときに手を差し伸べてくれた月光仮面、それが中国なのである(単純すぎるか?!)。
2)「子ども達にとってアジア人(インド系を除く)の顔は=中国人なのだ。日本人の顔を正しく認識している訳ではない」。これを分かりやすく極端な例としてたとえれば、日本人の顔を欧米人のような顔であると思っていれば、日本人を見かけても、日本人と呼びようがない、ということらしい。なんだか分かったような、分からないような・・・。
そしてフォローするように彼はこう言うのだった。「大丈夫だ、安心しろ藤沢。テマ村やキディア村(=ジャウ氏の出身の村)、それにローアモシ(=JICAの灌漑稲作プロジェクトがあった)では、たとえ本物の中国人がいたって“Mjapani”(日本人)って呼ばれるから!ワッハッハッハ」。だそうである。慰めになってるのか?
ただ中国人やインド人は、祖国を離れ自らが根を下ろした地を自らの故郷として、地道に、そして深くその地の社会や人々の中に溶け込んでいく。そしてその地に骨を埋める。彼らはインド系であり中国系であるが、タンザニア人なのだ。そこにくると私たち日本人の多くは、どこまでいっても日本という看板を背負った日本人という感は否めない(もちろん全ての日本人がそうであるとは言わないが)。
また人々日常に本当に身近な製品、たとえばランプであったり、たとえばパンガ(現地のナタ)であったりの多くはインド製であり、中国製であったりするのだ。そんなところからも、人々の心への浸透度合いという点では、日本もまだまだ土俵に上がったばかりの小兵力士なのかもしれない。