この2月から3月にかけて、キリマンジャロ山で5年ぶりとなる「植林ワークキャンプ」を開催しました。村での植林の様子については、近いうちに当ホームページの「村落植林活動」のページにアップするつもりですが、ここでは今回のワークキャンプの後半に訪れたセレンゲティ国立公園について触れたいと思います。
セレンゲティ国立公園は1951年に設立されましたが、その面積は何と関東平野に匹敵する14,763平方キロメートル。マサイ民族の言葉で「果てしない平原」を意味する”Serengit”がその名の由来となっているようですが、小さな島国日本から来た者の目には、目の前に広がる光景にそれが陸であると理解するより、砂浜から見た「海」だと思った方がまだ納得がいく広さです(写真)。
(写真) まさに 「海」。セレンゲティに果てしなく広がる草原
今回はチーターとワニ以外のほとんどの動物たちを観察することが出来ました。さらに大地を黒くして押し寄せるヌーの群れにも遭遇でき、そうそうない幸運に恵まれたといえるでしょう。
ただそうした素晴らしい景色と動物たちを見るにつけ、頭の中で何とも受け止めることの難しい違和感がありました。この風景の中に欠けているものが分かっていたからです。それは「人間」です。もちろん、私たちを含め四輪駆動車に乗った外国人観光客はたくさんいます。しかしセレンゲティが国立公園となった1951年以来、そこに元々暮らしていたマサイやその他の民族の人たちは、「野生動物保護」、「自然保護」の名の下に、強制的に排除されてしまいました。関東平野に匹敵する広さの土地から、です。
もしこのような「災い」が、私たち自身の身に降りかかった時、果たして私たちは「はい分かりました」といって、強制排除の措置を受け入れることが出来るでしょうか?たとえそれが自然を守るため、野生動物を守るため、そして世界人類の宝・世界遺産を守るためであったとしても。
ただ人を追い出せばそれで解決という、何とも知恵を絞らなかったものとの思いがします。もっともセレンゲティが国立公園として制定されたのは今から60年も昔のことですから、未熟な自然保護思想のもとでは、あるいは「当時は仕方なかった」と言えてしまうのかも知れません。
しかし、もしそれが今起きているとしたら?キリマンジャロ山(国立公園・世界遺産)ではその「もし」が起きています。自然(森)を守るためとはいえ、そこに暮らしている人々からただ彼らの生活の森を奪ってしまえばそれで良しとは、現代にあって到底解決策と呼べるものではありません。
知恵を絞らなかった不幸は過去のものと思っていたセレンゲティでも、隣接するンゴロンゴロ自然保護区との境界に移住させられたマサイの人々が、またしても排除させられるかも知れないとのニュースが入ってきています。
(→http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2013/05/post-2922.php)
しかも表向きはそこを野生生物回廊に指定するからですが、その実はお金持ちの外国人が狩猟を楽しむためのエリアとして強化したいというのが狙いのようです。
一体誰のために守るのか?何のために守るのか?セレンゲティの動物たちやキリマンジャロ山の森の先に、この重い問いがあることを見失ってはいけないと思っています。