写真はテマ村から望むキリマンジャロ山
11/8~11/18にかけて、タンザニアから現地カウンターパートTEACA(Tanzania Environemtanl Action Association)の副代表アドンカム・ムチャロ氏が来日していた。日本での滞在期間中は、講演や大学でのシンポジウム参加、森林や有機農法の現場視察などびっしりの予定をこなして、無事11日間の日程を終え、帰国の途についた。それらの内容報告についてはニュースレターに譲ることにしたいが、ここでは、氏の来日中の出来事を通してあらためて気づかされた、私たち日本人に宿る感性のようなものについて、ちょっと触れてみたい。
今回ムチャロ氏を連れて日本をあちこち動き回った。そのうちの何度かは、富士山の麓を通ったが、そのたびに私は「ほら、あれが富士山だよ」といって指さして見せた。また何人かの日本人と同様にあちこち訪れたりもしたが、遠くに富士山を望む機会があると、みんながみんな、「あ、富士山が見える!ほらあそこ!」といってやはり指さす。そんな場面が何回もあり、そのうち私は不思議な感覚に陥った。
もちろん、外国の方と一緒にいれば、それは富士山を見せてあげたいし、指さしもするだろう。では、もし彼がいなかったら、私たちの態度は変わったのだろうか?変わらないような気がする。誰かと一緒にいれば、「あ、富士山が見える!ほらあそこ!」なのだろうし、一人でいる時でさえ、声に出すことはなくとも「あ、富士山だ」なのだと思う。
タンザニアと関わり始めて20年ほどが経つが、いまだかつてキリマンジャロ山麓に暮らす村人たちが、「あ、キリマンジャロ山だ!」といって指さす光景を見たことがない。もちろん彼らにとってキリマンジャロ山が見える光景は日常のことだし、富士山麓で暮らしている人たちが、いちいち富士山が見えたからといって、声を上げたり指さしたりすることはやはりないだろう。それでも1年のうちの何日かは、足を止め富士山をただただ無心に見つめる時間がきっとあるのだと思う。かたやキリマンジャロ山の村人たちが、キリマンジャロ山の姿に心をとらわれるように佇み、見つめている、なんて光景には、やはり出会ったことがない。
タンザニアの人々にとって、キリマンジャロ山は間違いなく誇りであり、自慢であろう。私たち日本人にとっても、富士山はやはり誇りであり、自慢であろう。でも、この両者の誇り、自慢の間には、とても異なる感性が横たわっているのだなと思えた。そして私たち日本人の、富士山に対するとてつもない思い入れを、あらためて、つくづくと感じた次第である。
あまりに誰彼となく、パターン化された「あ、富士山だ!」が繰り返されるので、最後の方にはなんだか滑稽にも思えてしまったが、それもこれも私たち日本人と富士山のゆえ。やっぱり「富士は日本一の山」だ。