キリマンジャロ山といえば、アフリカの最高峰、そしてほぼ赤道直下にありながら、山頂に万年の氷雪を抱く山として、つとに知られています。さらに世界遺産にも登録され、最近では事実はまだ定かではないものの、地球温暖化の影響ともいわれる山頂氷河の急激な減少が、なおのことこの山の存在を世界に知らしめています。
しかしこの山が人類の宝として、その素晴らしい景観や登山の対象として注目されることはあっても、あるいは地球温暖化の象徴として先進国の人々の耳目を集めることはあっても、いまこの山で起こっている「森」(自然・環境)とそこに生きる「人々」との間の相克について、知る人はほとんどいないといって良いでしょう。
もっともここでは分かり易くするために”相克”という表現を用いましたが、その実相は、この言葉が想起させる二項対立のイメージほど単純ではありません。
私たちタンザニア・ポレポレクラブは、1994年からキリマンジャロ山の東南山麓、標高約1,700mにあるテマ村で、ローカルNGO”TEACA”(Tanzania Environmental Action Association)や地域の村人たちと力を合わせながら、森林回復のための植林に取り組んでいます。地域の人々は私たちが現地に入る以前、1989年からすでに植林に立ち上がっていました。彼らが植林の必要性を感じたのは、昔の記憶に比べて不安定化し減り続ける雨量と、それに伴う水源の枯渇や水不足、作物の生産性低下などの原因が、自分たちが森の木を消費(主に薪として)し続け、森林の劣化を招いてしまったからではないかと考えたためです。そこで彼らは、小学校の片隅に苗木を育てるための小さな苗畑を立ち上げると、自分たちが日々利用している森の中に開けてしまった裸地に、1本1本木を植え始めました。以来20年以上にわたって、彼らは森での植林に取り組み続けています。当初は千本にも満たない数だった苗木は、最大時には年間12万本を超えるまでになりました(植林、配付、販売用苗木の合計数)。
さて、ここで出てくる「自分たちが日々利用している森」ですが、実はそこは完全な原生の森ではありません。この森は”Half Mile Forest Strip “(以下HMFS)と呼ばれ、キリマンジャロ山の森林保護区(1921年設定)の内側にありながら、地域住民が日々生活に欠かすことの出来ない、必要最低限の生活資源(薪や家畜のための草など)を採集して良い場所として、1941年に設けられたバッファゾーン(緩衝帯)の森です。キリマンジャロ山ではその後1973年に、森林保護区より標高の高い部分が国立公園とされ、さらに1989年に山自体が世界遺産として登録されました。
このようにキリマンジャロ山の(自然)管理体制は、世界遺産として保護の網がかけられると同時に、標高の高い順から国立公園→森林保護区→森林保護区の一部としてのHMFS→その下、山麓最下層に広がる村落圏という、4層構造のもとに行われる形が確立されました。
もともと森林保護区内にHMFSというバッファゾーンが設けられることになった経緯は、1921年に設定された森林保護区が、人々の森林へのアクセスを禁じたことによります。当時も今もキリマンジャロ山麓に暮らしているのはチャガと呼ばれる人々ですが、彼らは政府(植民地政府)に対して、森林保護区として人々を森から締め出しては、そこで暮らしている者の生活が成り立たたなくなること、地域住民が日々の必要資源を採集することが許される、然るべきエリアが必要であるとの要請したことによります。また明確なエリアを設定し、そこを適切に管理、運営していくことで、それ以外の森は手をつけらずに守られるようになります。それ故の”バッファ”ゾーン(緩衝帯)であり、またそれが設けられた1941年当時、そこがHMFSではなく、”Chagga Local Authority Strip”と命名されたのも、以上の経緯から、その管理権限がチャガ民族の代表機関(当時)であったチャガ評議会に付与された故です。
チャガ評議会の下、Chagga Local Authority Stripの森は、地域住民たちの手によって極めて厳格に管理され、守られていたことが知られています。タンザニアが独立し、民族(部族)主義排除の理念のもと、チャガ評議会が解散させられた1961年までの間、彼らによってこのエリアに植林された面積は450haにのぼります。そして独立後の1962年から名称が現在のHMFSに変更され、1971年までは県が管轄、1972年~1986年まで今度は州が管轄、そして1987年から再び県の管轄へと、その管理主体は二転三転入れ替えられます。県が管轄した間の植林面積は、最初それが管轄した1962年~1971年が116ha、再度管轄した1987年からが129haでした。州が管轄した間の植林面積は不明ですが、県の管轄時も含め、自主財源確保のための商業林経営に重きが置かれたため、植林面積を伐採面積が上回っていたと言われています。とくにタンザニアの森林管理史において、森が州管轄下にあった時期は「いくつかの森林保護区が完全に消滅した」最悪の時期でした。
その後現在に至るまで、キリマンジャロ山の森林は一貫して減少の一途を辿っています。世界遺産でもある同山のこうした状況は、先進国からも注目され、日本も加盟する先進国クラブ・経済開発協力機構(OECD)からも「森を守るために国立公園の範囲を広げ、軍隊並みの監視隊を配置せよ」とのレポートが出されるに至りました。
そして結果として起きたことは、2002年にHMFSを除く森林保護区が国立公園に編入され、次いで2005年に発布された国立公園法補助法によって、HMFSもすべて国立公園に取り込まれてしまいました。そこを管理するキリマンジャロ国立公園公社(KINAPA)は、ショットガンを装備したまさに軍隊のような監視隊を配置し、暴力をもいとわぬ地域住民の完全排除へと乗り出しました。もともとこの国立公園領域拡大の背景にあるのは、人を追い出すことで自然を守るという旧態依然とした要塞型自然保護思想で、キリマンジャロ山で起こっている現実は、暴力を除き、その思想が忠実に実行に移されたことを意味しています。その背後には、先にも触れたように、日本も含む先進国(当然のことながら、タンザニアの重要なドナー国でもある)からの提言があったことを忘れるべきではないでしょう。
もちろんそのことによって、森も守られ地域住民の生活もより豊かになるというのであれば、何も問題はありません。しかし百歩譲って、たとえ住民生活が犠牲になったとしても、人類の宝であるキリマンジャロ山の自然や森林が守られるならば良しと考えたとして、果たしてこの人と自然の完全隔離という方法で、本当にキリマンジャロ山の自然や森は守られるのでしょうか?当会ではそうは考えていません。
キリマンジャロ山の森林管理と森林劣化の歴史を紐解いてみれば、先の事例も含め、それが住民に対する管理強化を積み重ねてきた歴史であり、一方で森林劣化を止められなかった(もしくはより悪化する)歴史の繰り返しであったことが分かります。そして国立公園化は、その従来の「管理強化による自然保護」という失敗の思想と手法から一歩も踏み出さないばかりか、管理強化の「究極の姿」ともいえるものです。
過去の歴史は、たんに管理を強化するだけではキリマンジャロ山の森は守れないことを明確に示していますが、そもそも国立公園化によって、地域住民の日々の薪や家畜の飼料(草)に対する需要が消え去るわけではなく、人々は違法を承知で国立公園に”侵入”する以外に選択枝はありません。人間の排除によって自然保護が成立するという論理は、少なくともキリマンジャロ山では現実を無視した机上の空論に過ぎないといえます。
その一方でやはり歴史を紐解くと、森林が最も良く管理、保全されていたのは、森林破壊者として排除の対象とされた、まさにその地域住民自身の手に森林(HMFS)の管理が任されていた時期、すなわち前出のチャガ評議会が管理していた時期であったことが分かります。管理や規制を強化しても、それを確実に実行、フォローする予算も人員もない政府に対して、地域住民たちは自らの生活が森林に依存しているが故に、その持続可能な利用の重要性をよく理解し、厳格な利用と管理のルールを設け、極めて堅実に守っていきました。
当会では、キリマンジャロ山の森を守り、そして同時に地域住民の生活を守るためには、トップダウンによる一方的な管理強化とその押しつけではなく、かつてのチャガ評議会の時代がそうであったように、地域とその住民たち自身が考える森林の利用・管理の方法を、ボトムアップで再構築していく必要があると考えています。そしてその実現をはかるため、現在以下を課題とした活動に重点的に取り組んでいます。
1.HMFSからの国立公園指定の解除。
2.地域住民の考える森林利用・管理の方法と仕組みの再構築
3.”2”の森林条例への反映
4.地域住民による森林管理への持続的モチベーションの確保
これらの課題のいずれも、その実現は容易ではありません。2012年3月現在での状況は、”1”については、中央政府、州、県の各レベルにおいて、その必要性への理解を深めることができ、国立公園指定解除に向けた一定の成果(中央政府による国立公園内の旧HMFSにおける、地域住民による植林活動の承認、およびHMFSを除く形での新たな国立公園境界の測量完了)はあるものの、国立公園を手放したくないKINAPAの激しい巻き返しに遭っており、今後どうなるか予断を許しません。さらにこの課題を最終的に決着させるためには、国の法律(国立公園法補助法)を改正する必要があり、今後議会対策も必要になってきます。
“2”は、モシ県下のHMFSに沿って存在する村々の協議会の立ち上げが完了し、その中でボトムアップによる森林利用・管理の仕組み作りが必要である、とのコンセンサス形成までたどり着いた段階です。
“3”は、国立公園が現実に解除されるまで手をつけられません。
“4”は、チャガ民族の生活、文化の中で、森林が果たしてきた役割や位置づけを、村人たちと共に見つめ直してみる作業に取り組んでいます。そのプロセスや取り組みによるアウトプット(イラストマップ、村のガイドブック、村のカルタ等)を通して、森に対する再認識や再発見、自分たちに身近な森へのさらなる愛着に繋げていけたら良いと考えています。
人と環境の相克。キリマンジャロ山において、それは決して人と環境の対立という、単純な二項対立の図式なのではありません。その片方にしか目を向けない、偏った視座が「創り出した」図式だといえます。この図式を解き放ち、問題解決へと導く鍵は、まさにその誤った視座を改めることにこそ、その出発点があると考えています。それはこれまで目を向けることのなかった相手を信頼し、排除によってではなく、共に叡智を寄せ合うことを通して、もう片方の相手である森や環境に向き合ってくことだと考えいてます。
キリマンジャロ山での村人たちによる植林の様子
写真1: 植林前(2010年)
写真2: 植林中(2011年)
写真3: 植林後(2012年)