上の文書は、2005年9月16日にタンザニア政府によって公告された「国立公園法(補助法)」である。この補助法は、キリマンジャロ山の南山麓から東山麓(モシ県からロンボ県)にかけての、キリマンジャロ国立公園の境界線を再定義したものである。この法律によって引き直された目に見えぬ1本の線が、いま山麓に住む村人たちを苦しめている。
キリマンジャロ国立公園は、1973年に標高5,895mある同山の、標高2,750m以上の部分を対象として設定された(国立公園としての正式なオープンは1977年)。
同山には、国立公園設定に先立つ1921年に、当時の宗主国であった英国(植民地政府)によって、キリマンジャロ森林保護区が設定されていた。さらにその20年後の1941年、同じ植民地政府によって、地域住民の森林資源利用の便宜を図ることを目的として、一種のバッファゾーン(緩衝帯)としての「ハーフマイル・フォレスト・ストリップ(以下HMFS)」)が設定された。
新たに定義された国立公園の境界線は、このバッファゾーン、HMFSを飲み込んでしまった。さらにこの境界線の引き直しにともなう管轄組織の組み替えと、その住民への無理解が、村人たちをさらなる窮地に追い込んでいる。
世界遺産にも登録されているキリマンジャロ山と、そこに存在する自然の貴重さについては論を待たない。国立公園法はもちろんその貴重な自然を守るためのものである。しかし果たして「法」は自然を守れたであろうか?これまで巨大なキリマンジャロ山を覆うように、幾度となく被されてきた法の網。しかしこの半世紀の間に、その森は3割近くも(推定)失われてしまった。その歴史はいったい何を物語っているのだろうか?
まるで1枚の紙にハサミでも入れるように、自然の貴重さや森林の保護だけを他から抜き取り、切り離しても、キリマンジャロ山の森は守れない。村人たちの窮状と失意の中に、いままた繰り返されようとする歴史の過ちが見えてくる。
今号のニュースレターでは、そんなキリマンジャロ山の保護の歴史を紐解き、その底流を貫いている論理と、それが森林と住民に及ぼしてきた影響、そしてテマ村でいままさに起きている現実と展望について特集する。
〔No.31 その他の内容〕
●オピニオン: 「法」は森を守れるか
●プロジェクトの現場から: 取り組み状況報告