事務局日誌: 子供の居場所

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前回の事務局日誌で、他の国や地域を経由してくることで気付くタンザニアと日本、そしてその他の国のちょっとした違いについて触れてみた。今回もそんな視点から話を続けてみたい。

ホテルの宿泊やサファリ観光だけだと気付きにくいかも知れないが、タンザニアに行くと、どの町も村も 比較的こざっぱりときれいなこと(=汚くない)に気付く。私はインドはムンバイしか知らないので、インド全体に一般化してしまって良いかは分からないが、タンザニアに比べ、インド(ムンバイ)はそこらじゅうにゴミが散らかっていて、なんとも汚いのだ。ゴミのせいだけではないだろうが、空気もよどんで独特の臭いがする(ムンバイに住むと、あっという間に鼻毛が伸びるという話を以前聞いたことがある)。

タンザニアで町や村がきれいなのは、毎朝の風物詩のように繰り広げられる掃除にある。家の中はもちろんだが、庭、家の前の道、学校の校庭など、とにかくよく掃除している。現地では学校の校庭はもちろん、道や庭、家の“床”ですら土であることがよくある。その土の上を、そこらに生えている葉っぱのついた木の枝を切ってきた即席のホウキで、実に丁寧に掃いている。これは道理でどこに行ってもきれいな訳である。タンザニア人はきれい好きなのだと言ってしまえばまあそうなのかも知れないが、こうした習慣は何かの時の感染症の発生や拡大の防止にも、少なからず役立っているだろうと思える。と同時に、こうした習慣が幼少の頃からの厳しい躾によって培われたものであろうことも、村にいて村人の生活を見ていると容易に想像が付く。

タンザニアでは、子に対する親の躾は実に厳しい。たとえば日本ではもはや死語だが、タンザニアでオヤジといば間違いなく“地震、雷、火事、親父”のたとえに出てくる、子供にとってはとっても怖~いオヤジである。厳格な親のもとで子供たちは厳しく躾けられ、そして掃除、洗濯、炊事などの家事はもちろん、薪集め・薪割り、水汲み、畑や家畜の世話など、その家を守るための一翼をしっかり担っているのである。

大人と並んで子供には子供の役割があるのは、何も家庭の中だけのことではない。村や学校などでも、大人や先生たちは何かと子供たちをつかまえては、用事を申しつけたりしている。こうした光景を見ていると、私たち日本人はどうしても「そんなこと子供を使わずに自分でやれよな」と思いがちである。しかしそれは本当に正しい見方だろうか?確かに子供を小間使い程度にしか見ていない大人がいるのも事実ではあるが、“子供が出来ることは子供がやる”というのが、家でも学校でも地域社会でも、子供に割り当てられた重要な役割なのだと思う。だから家に限らず地域の中でも、子供の社会的役割や位置づけはとても明確である。そしてそれゆえ、地域の子供はその地域の子供として、地域の大人たちが親に気兼ねも遠慮もすることなく、叱り、誉め、躾け、目配りし、しっかりと受け止めている。それが大人の役割なのである。

さて、日本はどうだろうか?地域社会の中で、子供たちはどのような位置付けを担っているのだろう?家、地域、社会の中で、子供たちが自覚できる自分の“居場所”は何処なのだろう?そしてそれを受け止める大人たちは?社会の中で自分の居場所や存在意義を見出せず、生き甲斐ややる気を失いがちになってはいないだろうか。

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