事務局日誌: ~東日本大震災復興支援ボランティア報告①~

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東北に行ってきました (2011・6・13)

2008年にタンザニアでご一緒してもう足かけ4年になるのですね。大変お世話になりありがとうました。とても貴重な経験でした。私はその後2008年夏と2009年秋は生まれ故郷の満州へ、2010年は北部ビルマ(ミャンマー)から国境を越えて中国・雲南へ、2011年は中部ビルマから南部ビルマへ。満州やミャンマーは、縁者が亡くなっていますので、慰霊が目的の旅でした。

2011年、昨年はミャンマーから戻った直後に3.11大震災が発生しました。日頃週2度程度、国有林や都有林などの森林ボランティアをやっていることもあり、そのせいかどうか、私の足は自然と東北の方に向かいました。

以下のレポートは、家族や親戚や友人たち宛に書いたものです。そんな拙文ですが、どうか”読むのも東北支援のひとつ”と思われてお時間のあるときにでも目とを通していただければ幸いです。

 

今回参加した”RQ市民災害救援センター”はアウトドア-やエコ関連のチームが主体となって編成された団体で、本部を東京に、東北ベースキャンプを宮城県登米市において主に気仙沼、南三陸町、石巻で活動しています。

参加条件は”自己完結できる人”と云うことだけで、その他特別な条件はありません。今は地元の好意で小学校の体育館、被災したレストラン、それにお寺の本堂などを借り、また場所によってはテント村を作って寝袋で床にザゴ寝しています。食事などは自分達で用意し、装備なども基本的には自分持ちでやっています。

地理的に関東からの人が多いのですが、全国各地から入れ代り立ち代り常時80~120人ぐらいが参加しています。若い人は仕事や学校があるので今の時期、活動日は平均3日、4日ぐらいでしょうか? 時間があるおじさん達は体力次第、気力次第です。

活動内容は泥出し、片付け等の作業系が主ですが、他には支援物資のデリバリーや被災者のケアーも各種もやっています。

故郷九州からも! 沖縄、熊本、大分、長崎、福岡から来た人とも一緒に作業しました。

遠く外国からも! イギリス、台湾、韓国からの人とも一緒にがんばりました。

いつもは陽気な若い人たちも惨状を目にすると、みんな無口になります。幼い子には出来ればこの惨状は見せたくありません。生まれたてのピュアな心に大きな傷を与えかねない、それはすざましい光景ですから。とてもシャッターは押す気にはなれませんでした。(禁止している団体もあるそうです)

テレビの映像や新聞の写真で知っている”ごみ、瓦礫の山”、他人から見れば”ごみ”でしょうが、当事者にとってそれは『 今まで生きてきた”あかし” 』、亡くなった人のそれは『 直前まで生きていた”あかし” 』。人により思いはさまざまでしょう。片付け作業も場所により、物により、被災者の気持ちの整理がつくまではすこし時間をかけることも大事な思いやり・・だと痛感しました。『自分が逆の立場だったら・・』と考えればよく理解できます。ゾッとします。

復興の実働部隊は自衛隊が主力ですが警察車両も消防車両も他県ナンバーで溢れています。

企業も大型バス等で社員や関係者を送り込んでいます。われわれ一般市民も一人ひとりはケシ粒のように微力ですが、それでも全国から集まってきています。政治の混迷は別として、実働部隊が全国版で総力あげているその姿、とても尊く感じます。

気仙沼市街地で溝掃除、泥出しをやったのですが週末を利用して、隣の秋田県から若い人が4~5台の大型バスで駆けつけてくれ、臭気の強くなった溝掃除を体中泥だらけになりながら頑張ってくれました。この作業本当に臭かった!これには被災者もそして我々おじさん達も元気を貰いました。

町がほぼ全滅した南三陸町は水道も電気も復旧してはいませんが、6月10日に幼稚園を再開すると云うことで、いろんな雑用の手伝いをしました。

震災時、63人の園児たちはお昼寝の時間だったそうです。半数は母親が連れ帰り、半数は先生たちと裏山に逃げたそうです。「帰った母子の安否が確認できるまでの3日間は心臓が破裂しそうでした。みんな無事でよかった。子供はみんなの宝ですから」声が詰る園長の話は印象的でした。床上1mまで津波が来て物品はほとんどダメ。未だに幼稚園のすぐ下は 何台もの車が逆立ちしている瓦礫の山のまま。小さな幼い心に負ったダメージがあまりにも大きく、その為に1日でも早く再開したかったそうです。子供たちの声や笑顔は復興の光!ほんの少しだけ役に立ちました。

鎮魂と海の復興を願って 岩手・一関の山に1,000本の広葉樹を植えました

【豊かな元気な森があるところにはいい川が! いい川のあるところには 豊かな海が!】

気仙沼の漁師さん達が上流の山に植林を始めて23年、牡蠣漁師で研究者でもある畠山重篤さんの名著「森は海の恋人」で知名度も高く、この活動は全国的なものになっています。今年の植樹祭には 気仙沼市長、一関市長、応援団長の田中京大名誉教授、それに北海道から沖縄までの賛同者1000人がこの山に集まりました。

主催者の挨拶 「・・・・あらためて海の怖さを、大自然の恐ろしさを知らされました。 わたしも母を失いました、子供さんを亡くされた方もいます。多くの人が家や船を失いました。しかしわたし達は海を怨んではおりません。ここには海を怨んでいる人間は一人もおりません・・・ただただ 海の復興を願っています・・・・」

 飾らない言葉で、考え考え言葉を選びながら、とつとつと丁寧に話されました。東北の人たちの芯の強さと、人としての品のよさにうたれ、涙がこぼれました。

気仙沼湾の牡蠣養殖用の筏は全て流されました

我々は筏用丸太調達の手伝いをしました。海近くの杉林から末口25~30cm、長さ14~16mの材を間伐して、長い材のまま人海戦術で浜辺まで運び出し、それを3本毎に組んで船で海に引っ張り出すという仕事です。杉林の間伐は 東京の森林ボランテア仲間が数日前からチェーンソウ持参で担当しました。運び出しと送り出しは20人の我々のチームが担当し、引っ張る船は津波で生き残った貴重な船、これは漁師さんが担当しました。3日間連続で約150本、全体の10%にも届きません、ま~だまだです。それでも「全部失ってなんもやる気が出なかった、でもな、お陰で少しづつ気持ちが上向いてきたよ、来年か再来年か 牡蠣食い放題をやろう、来てくれよ」と漁師さん。我々にとっては何よりの言葉でした。

石巻・牡鹿半島根元の浪板地区で

この地区は全滅状態でわずか数件半壊の家が残っただけの小さな集落です。ここにはリアス式海岸には珍しく砂浜があり漂着物が絶えません。水も電気もありません。

我々チーム15人と栃木チーム60人、それに群馬の建設会社の人たちが4tダンプ、小型ユンボ持ち込みで参加してくれました。海岸、川底、家の中、その周囲と それぞれが手分けして片付け作業をやりました。

地区共同体で いかに山を守り、川を大切にし、海を大事にしてきたか、「川には鮎も遡上し、上流にはサンショウウオが、下流にはうなぎもいる」地区長がこの地域のことや自分たちの暮らしをポツリポツリと話してくれました。

「ここは昔から米さえ買えば充分暮らしていけた、いいとこだよ。3ヶ月経ってやっと何かをやろうという気になってきた、よう来てくれた」

かろうじて残った縁側で「お茶飲んでけよ」、「菓子食ってけよ」と近所の人。つらいだろうに、憤っている人を見たことがない。穏やかに励まし、耐えている。なんでこんなに優しくなれるのか。

次回は6月末ごろから 気仙沼の拠点にしぼって行こうかと思っております。

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